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zoom RSS 中山備中守の墓碑を訪ねて

<<   作成日時 : 2018/06/07 15:55   >>

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 上道町農協だよりの歴史探訪(平成4年5月・189回)に著者の竹田 稔先生が、瀬戸内市の大賀島(大雄山)の麓にある中山備中守の墓を子孫の中山義春氏の案内で詣でたと書かれています。
 邑久町史の郷土史編にも豊原地区の大橋に中山備中守の墓があるとされています。新緑の五月、大雄山の保護活動をされている小林さんにお願いして、中山備中守の墓に案内して頂きました。
大賀島は宇喜多一族の発祥の地であり、太雄山の頂上には古刹の大賀島寺があって、宇喜多一族の供養塔が建立されています。
大賀島(大雄山)は、古代は瀬戸の穴海に浮かぶ小島でしたが、眼下には、中国山地から流れ出る吉井川の肥沃な扇状地に開拓された千町平野が広がっていました。
江戸時代に池田藩の家臣が著した備前軍記では、浦上宗景が亀山城の城主の中山備中守に謀反の疑いがあるので、宇喜多直家に討ち取るよう指令したとされていて、直家は中山備中守を騙し討ちしたとされています。
直家の主君の浦上宗景は、尼子や毛利勢の備前、播磨などへの侵攻を防ぐ拠点として、亀山城に注目したのではないかと考えられますが。今でも、亀山城の麓は交通の要所で、山陽新幹線と山陽線、そして山陽道と作州へ通じる和気往来などが交差しています。
しかし直家は主君の宗景の命を受けて、舅でもあったとされている中山備中守と膝を交えて話し合い、説得して、亀山城を無血開城したのではないか・・・・。
そして直家の生まれた砥石城の上、宇喜多一族の菩提寺の大賀島寺に備中守を隠蔽した。
中山備中守は、この地で田畑を耕しながら余生を過ご<
その末裔が、豊原の大庄屋として活躍したのではないかと・・・・。考えてみました。
 廃藩置県の明治時代には、この中山家から栃木県知事や北海道庁官などを歴任する人物も輩出しています.。
上道郡誌によると、お盆の万灯会は、妙禅寺合戦の時、戦死した三村軍などの兵士を弔うために宇喜多直家が衆僧を集めて、供養したのが起源であると・・・・記されています。
私が住んでいます亀山城の隣村の草ケ部でも、お盆には、万灯山の麓の草ケ部大池の土手で、今でも万燈を灯して先祖を供養しています。
 直家の先祖は、千町平野に開発された水田を潤す貴重な水をめぐっての争いの仲裁、または用心棒として、大賀島の麓で勢力を伸したとされていますが、農民の味方でもあった宇喜多一族の伝承を発掘して、書き留めて、亀山城の城主であった宇喜多直家を顕彰したいものです。 (2018.06.04)

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